一生勉強の人生 -前編-

田部井 義人

1980年生まれ、群馬県前橋市出身
県立前橋高校卒業後、青山学院文学部英文学科卒業。
自身がLGBTであることと向き合いながら、東京の出版社でライターとして活躍するが、あるきっかけを機にフリーライターとして活動。
順風満帆に社会生活を送るはずだったが、忍び寄る病に気づかずうつ病を発症し、故郷でひきこもりとなる。廃人とも言える暮らしを送る中で見えた小さな光を手に再び上京し、そこで彼を大きく成長させる人物に出会うことになる。闘病生活を続ける中で彼が見た景色、病を経験したからこそ得たもの、そこで出会えた夢や希望を包み隠さず語る。

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インタビュアー:にじ練馬スタッフ 明田

にじスタッフの明田です。宜しくお願いいたします。まず初めに、田部井さんの学生時代を教えてください。

宜しくお願いいたします。私は勉強が好きだったので文系だったら東大、理系だったら医学部を目指すような高校に入学をしました。勉強は好きだったので成績も良かったのですが、バンドをやっていたので東京大学を目指す気はありませんでした。

バンド活動もされていたのですね。どんな学生さんでしたか?

高校1年のときは文系で学校で2番目くらいの成績で、毎日普通に通っていました。
サッカーとバンド活動と予備校に通っていてその頃の友達とは今でも遊んだりしています。その頃の担任が厳しく、同じ高校以外の友達とは遊ぶなとか、ごはんも外食は禁止と言われていました。成績も良かったので先生たちのプレッシャーがすごかったです。
外国語を生かしたかったので東京外大志望でした。

俗にいう優等生だったのですね。大変だったことはありますか?

勉強も出来たし先生にも期待されていていた一方で、自分が男にしか興味がないことに気がつきました。おかしいなと思い始め、パソコンを買って色々調べているときに、初めて自分がゲイだと知りました。それから受け入れるまでに2年ほどかかったのですが、高校生のときは自分がおかしいから一生隠し続けないといけないと思い、話を合わせるために女性と付き合ったこともありました。みんな思春期真っただ中なので彼女がどうこうという話で持ちきりだったからです。今では、男子高校と言うと「ゲイにとってはパラダイスじゃん」なんて言われたりしますが、当時は本当に悩んでいました。
不本意の付き合いをしているときは繕う事しかできず、誰かに知られたらもう終わりだと思っていました。

いじめられるのも嫌だし、群馬という田舎のなかで、「あいつらホモだ」って簡単に言う人も多くいました。ちょっと仲良くしたりすると、「あいつらホモなんじゃない?」という人に過剰にびくびくして過剰に自己防衛をしていました。受け入れたくなくて、自己否定もしていました。絶対に他言出来ないと思ったし、一生隠し続けないといけないと思っていました。当時はフレディーマーキュリーくらいしか公言している人がいなかったため、音楽や特化した自己表現をしていれば変人でも許されると思い音楽に没頭していました

期待をされて学業に励む裏で、辛い想いを一人で抱えていたのですね。

そうですね。本当に毎日しんどかったです。単位はちゃんと取ろうと授業だけは出ていて、英語が好きだったので英語中心で行ける大学を優先で選んで、青山学院大学に入学しました。先行は文学部英文学科で、大学最初の頃は楽しかったです。音楽サークルに入ってそれなりに楽しんでいました。3年生の時に本気でバンド活動をしたいと思い、ちゃんとしたバンドを結成しました

なんだかわくわくする話題ですね。その後の大学生活はどうでしたか?

初めの頃は楽しかったのですが、その活動も長く続きませんでした。バンド内で喧嘩をしてしまったからです。理由は自分が同性愛者だったからです。バンド仲間を好きになってしまい告白をしたら、そのことを全員にばらされてしまいました。みんなサークルに来なくなってしまいました。それで絶縁状態になり、半年ほど引きこもりになりました。その時は裏切られた気分にもなったし、公言したら社会的にも終わると思っていたので本当に辛かったです。それでも音楽をやりたかったので色々と探してみたのですが、いいバンドが見つからなかったです。
一人で音楽をやろうと思い活動をしていたため、単位まで落としました。親には入院していたと言い訳をしてお金を援助してもらっていました。今考えると、本当に迷惑をかけたと思います。

それは辛いですね。孤立してしまった訳ですね。

自ら孤立してしまった部分もありますが、辛かったですね。加えて大学5年生になったときはパニック障害にもなりました。その時には彼氏がいて支えてもらっていたため、半年ほどで投薬だけでコントロール出来るようになりました。

そばで支えてくれる人の存在は大きいですよね。

そうですね。今でも感謝しています。もう今は疎遠になってしまいましたが・・・。
卒業してからは、音楽活動がしたかったので彼と付き合いながらフリーターになりました。25歳になったときに才能がないことに気づき、見切りをつけないといけないなと思ったのですが、音楽は諦めても自己表現がしたかったので、北野武さんが学部長になると聞いていた東京芸大映像学科の一期生に応募をしました。
監督と脚本、プロデューサー部門、技術系のカメラマン等の募集があったのですが、脚本で応募をしたら、一次試験二次試験が通り、最後黒沢清監督に面接をしてもらったのですがそこで落とされてしまいました。
そこで調子にのって文才があると勘違いをして、小説を書こうと思い出版会社に入社しました。パチンコ雑誌を2年程担当して評価もされるようになった頃、踏み込んだ内容を掲載したくなり、パチンコ依存症の記事を書きました。そしたら「こんなの載せられる訳ないじゃない」と言われて、自己表現が出来ないもどかしさからフリーライターになりました。パチンコ雑誌で引き続き仕事がもらえると思っていたのですが、「やめた人間に仕事を回すわけないじゃない」と言われて全部切られてしまいました。
今考えると普通のことなのかもしれませんが、そのときは反発心しかなかったです。

社会は厳しいのですね。実力だけでは成り立たない部分もあるのかもしれませんね。

その時は自分が調子にのっていたということもあり自分の甘さを実感しました。でも、なんとか続けたくて他に塾講師のアルバイトをしながら、そこで広げた人脈で教育系の記事の仕事をもらえるようになり徐々に軌道に乗り始めた29歳の頃に、パタッと仕事をすることが出来なくなりました。
パニック障害が再発したのです。電車に乗れなくなって、眠れなくなって、主治医にうつ病と診断されました。そこから2年間働けなくなり、家からもあまり出ず堕落した生活をしていました。
親が仕送りをしてくれていたのですが、もう援助は出来ないと言われ群馬に帰りました。

やっと手ごたえを感じ始めた頃に症状が再発するのは、精神的にもかなりダメージを受けそうですね。

そうですね、自責をする毎日で病気が悪化し、母親は離婚していたため面倒を看ることが出来ないと言われ、父親の家に帰りました。父親もどうすればいいかわからないという感じだったのですが、調子が良い時はアルバイトをして、辞めて、の繰り返しを2年ほど続けました。病院を転々として、体重も30キロ近く太りました。6年くらい自堕落な生活をしていた34,5歳の頃に、病院でうつ病ではなく双極性障害だと診断されました。体調が少し安定してきて、再び自営業を始めましたが、全然うまくいっていなかったのに営業の電話がよくかかってきて、ウェブのページが悪いとかを色々真に受けて全部受けてしまって借金が膨らみました。今考えると騙されていましたね。
借金が膨れ上がり、37歳のときに自己破産をしました。群馬でアルバイト生活を続けていましたが、このままでは本当に人生が終わってしまうかもしれないと思い、最後に腹をくくる気持ちで埼玉県に引っ越し、ゲイバーで働くようになりました。少し荒治療でしたが、ゲイバーが向いていると感じることが出来、新宿2丁目に住むようになりました。その後同じ系列店で新店舗を出すことになり、チーママを任命されました。
順調に仕事をしていたのですが、色々なお客様と関わりを持つようになって、その時からLGBTQを支えるための学校を作りたいと考えるようになりました。自分も障がいを通して、誰かを救えるんじゃないかとも感じました。チーママを通して、精神的にももっと強くならなきゃと思い、LGBTQで悩む人たちを支えるスクールを開校しました。

色々な想いを抱えてきた半生だったのですね。詳しいお話をありがとうございます。
こういうことは許せなかったということは?自分でしちゃいけないと気を付けていることはありますか?

差別はあるし、それを誰かと共有しようとすることはいじめになるじゃないですか。
「あの子レズビアンなんだよ」って、集団でしちゃうからいじめになってしまう。差別的な話は他人とはしないと決めています。

LGBTQのことで悩んでいるのか、何のことで悩んでいるのかわからないときはどんな言葉が必要だと思いますか?

否定をしないこと。
例えば、親が子供にLGBTQを打ち明けられたときに、じゃああなたは性転換をしたいの?とか将来どうしたいの?とか極論を求められたら、話がかみ合わないと思います。
男性だったら、女性の恰好をしたいとか、転換手術をしたいとか、服だけ女性の恰好をしたいとか、戸籍まで変えたいとか、トランスジェンダーだからといって必ずしも異性が好きだということはないし、そういったちゃんとした知識があれば、間違ったアドバイスをする可能性は減ると思います。
親でも友達でも、相談をうけたらとりあえず話を聞いて、次にアドバイスするまでにちゃんと勉強をしておいた方がいいです。ちゃんと知らないと的確なアドバイスはできないので。国語の先生に数学の質問をしても勉強しないと的確なアドバイスはできないのと同じです。友達がもし打ち明けてくれたら、「ああそうなんだ」くらいで気を使って話をしない方がいいかもしれないですね。
僕もトランスジェンダーということに対しては勉強不足だと思っています。
そういう人が来たときにどうやって対応しようかなと考えています。

僕自身も勉強はしていますが、知識は無駄にならないので、身に着けていきたいと思います。悩んでいる人に対しては、無駄に話を合わせない方がいい、「そうなんだ、でも大好きだよ!」とか無駄にそういう話をすると逆に気を使っちゃうと思います。
「あ、そうなんだ、病院行ってる?デイケアとかあるよ」とかそんな話でいい。何か提示してあげるとか。ひとパターンを押し付ければいいというわけでもない。
ウィキペディア一読するだけでもかなり勉強出来るので、全てを知る必要はないが最低限の知識は身に着けておかないといけないと思います。

うつの人に、うつの人の経験談を一回勉強して話すのとは全然違うと思うし、大切な人であれば大切な人ほど、ちゃんとした知識はつけたほうがいいと思います。
情報を全て鵜呑みにしてはいけないが、団体に電話するでもいいし、何か正しい情報を得た方がいいですね。
不登校に対する知識とか、LGBTに関する知識とか。

過去の一番苦しんでいるときの自分に言いたいことはありますか。

大学のときですね。セクシャルマイノリティで悩んでいたときがあったが、結果としては今考えるとこういう経験があったことは良かったかなと思います。
その時に味方になってくれる人もいたし、オープンにして生きるための最初の一歩だったのかなと思います。やっぱり悩まないと人間は成長しないと思うので、悩んで苦しむことは悪いことじゃないと思います。
今の悩んでいることは今後生きてくうえでプラスになると思っています。そう考えると今精神的にも成長したのかなと思います。当時の自分が弱かったとは思わないですが。

病気になって、お金が稼げないときに親に迷惑をかけたこともあって、それはそれで失ったものもありますが、病気になったから得たもの、弱い人の気持ちがわかるようになったことも大きな財産です。

今度は得たものを伝えていく番ということですね。ここまで、田部井さんの半生や過去の想いを伺わせていただきましたが、次回は田部井さんが思う社会とのギャップや、障害を持った方が求められるスキル、将来の展望を詳しく聞いていきたいと思います。

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